2008年12月12日金曜日

東遷と小堀

実は利根川は江戸時代まで東京湾に流れ込んでいました。 江戸幕府が現在の形に銚子に向け太平洋に流れるように大工事を起こし治水と流域の一大農地造成を貫徹したのです。 これによって当時世界最大の都市であった江戸100万人を流通の整備の観点および農地の拡大により養ったのです。

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その後、明治政府もたびたび氾濫する利根川の治水工事を進めました、小堀(古利根沼は昔の利根川)を取手市街から切り離し現在の形になったのです。 小堀は江戸時代から代々高瀬船を要し関宿を経由、江戸川、中川、小名木川を経由し米、肥料、魚加工品等を江戸に輸送する業で繁栄したのです。 関宿の向の境町、5Km川下の木下、柳田國男の布川(フカワ)も同様に運送業、旅館、倉庫業や金融業もあわせ繁盛したのです河岸とよびます。 小堀では多数(300名もいたとの記録があります)の船を引く労働者に対して銭湯を船の上で提供しかつ情報交換の場を提供する湯船がいくつもありました。

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